2017年9月18日月曜日

小々枝 通信⑥

小々枝通信⑥
日常に何もプログラミングしないならそれは作家ではない。

私の知らない人と会いたい。

場所を持ってみて、あまり頭を使わなくても人と何かすることが出来るのだなあと思った。別のところに頭のリソースをさけるので、ものすごくシンプルに個展のキャスティングが出来る。

ひとつの場所に、時間ごとに人を張り付けて展示しているように思っている。

いびつな集合体の展示は面白いけれど、まだいいかなと思う。

今「自分で選択出来ないもの」五感にゆだねるということに興味がいっているのは、無意識のうちに準備をしていて、自分の知らない人に対して身を投げていくということを昔よりも自分のコントロールの効かなさそうなところでやろうとしているのだと感じる。

日常に何もプログラミングしないならそれは作家ではない。

ドラマ(反転することによる普遍性)を描く劇作家は、人と人が出会うことによって生まれる人間の機微を描く。

そこには、この人とこの人が出会うと、こういう効果が期待出来るという目論見がある。

しかし、実生活でその人とその人を結びつける。というプログラミングをする人は少ない。

私は劇の台本を書くとき、特定のタイプの人がある言葉を言ったり、言われたりすることによって、実際に存在する人物が、どのようなフィードバックを日常でされるか、何に「気づく」かを想定してプログラミングする。

プログラミングをすることは、劇の台本を書かなくても出来る。劇作をするかどうかは別として、私は作家業が好きなようだ。

場所とカレンダーに人間を展示していく。それは個展であり、標本である。

月ごとにチラシをまくのは、これは、月ごとの時間の展示だからである。

私はここ、森林浴アトリエ小々枝に面白い人を張り付けていく。

22日〜24日はイベントがあるので、要チェック!
22日 18〜21時 俳句にのって外へ出よう(作らない句会)第2部
23日 19〜22時 進路を決める会。多数決で。
24日 15時〜 パンの動画をみる会(おいしいパンと紅茶付き)

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2017年9月6日水曜日

小々枝 通信⑤

自律と他律について ③

師弟関係における自律と他律について。
詩の学校がひと段落ついて、みんなでお菓子などを食べているとき、秋田住職と少しお話する機会があり、自律と他律について①で書いた違和感について聞いてみた。

大人になったら他律がそんなに必要なのでしょうか?
師弟関係など、他律が必ず悪い作用をわけではない。とのことでした。

他律というのは、前回の話(自律と他律について②)からもっと具体的にいうと、相手を知ることである。

相手を知る最も効率的な関係性は、師弟だと思う。次に恋愛、親子なのだと思う。

なぜなら、わざわざ意図的に自分自身を晒し、相手に見せていく(他律する)必要がお互いにあり、それをお互いに要求する関係性であるという理由づけまでついている。

弟子がはじめは他律だったが、そこから自律になっていく過程で師匠との対立関係が生じる。関わるということはそういうことなのだが、相手を知っていくなかで、自分のことがわかっていき、自分自身になっていく、いわゆる守破離が起こる。

恋愛だと、イチャイチャ期から、ケンカをし始め、そのうちお互いの距離の取り方が分かるようになる。

赤ちゃんでいえば、従順な時期から、イヤイヤ期になり、自分で判断できるようになるということだろう。

みんなちがってみんないい
は、本来そこに「だから自分で責任とろうね。」が入っているのだが、お互いに干渉せずに、責任逃れするための都合のいい隠れミノになっているようだ。

(本当は、責任という言葉自体を使わなくていいくらいセルフコントロール出来る世の中になればいいのだけど。)

対立構造が生まれたときに、その問題に対して向き合うことで、ようやく自律(セルフコントロール)できるようになるのだ。

師匠に関していうと、自分の文脈を手渡し、相手の自律を見つめることで新しい他律を手に入れるのである。

相手を知ることで自分を知る。これを繰り返していくことで、どこまでも遠くへいけるだろう。

支配することと他律は違うということさえおさえておけば、師弟関係は、非常に便利な他律ではあるなあと思った。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2017年8月30日水曜日

小々枝通信④

自律と他律について ②

先週、このテーマで考えてみて、もう少しわかりやすい具体例を挙げると、

具体例①作家とパフォーマーが一致していない場合

・作家「動物が好きだから、将来獣医さんになろう」

→獣医さんになるために必要科目の勉強をしない。

具体例②自分で演出(要求)する場合

→(パフォーマーに要求)
必要科目の勉強をし始める。

→(作家に要求)そこにたどり着くまでの道のりを算段する。

具体例③他者に演出(要求)される場合

→(パフォーマーに要求)
勉強した方がいいよ。
→(作家に要求)
本気で獣医になりたいなら、必要科目ぐらい調べたらどうだ。もう2度と獣医になりたいなんて言うんじゃない。

(相手がパフォーマーをみて作家に要求する場合、怒っている場合が多い。)

具体例④他者の要求が間違っている場合

→(パフォーマーに要求)
裏口入学が出来るから勉強しないで貯金しなさい。
→(作家に要求)
もっと言っていこう!
努力しなくても言っていたら自然となっているよ!

(言っていたら、自然となっている。は、努力したうえでいろんな人に他律アドバイスしてもらえる状況を作ること以外にはならない。)

さて、具体例はこんなところでしょうか。長くなったので、師弟関係における自律と他律についてはまた次回にいたします。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2017年8月18日金曜日

小々枝 通信その③

自律と他律について ①

先日、詩の学校にて、應典院の秋田住職が「自律」と「他律」についてお話されていました。

アメリカのマシュマロテストで、3歳の子どもに待てをさせる実験をして、40年後、自律心を働かせることが出来た子どもとそうでない子どものさまざまな「成功度合い」を研究したものがあるそうです。(待てが出来た子の方がいい結果が多いようです。)これはアメリカの自律ですね。

日本で自律について話すなら、「ののさま」という尊い方がかなしまれないよう、子どものうちは自律が出来るけれど、大人になると「他律」されざるを得なくなる。とのことでした。

そのとき住人は、「大人になると他律に頼らざるを得なくなる」がなぜかしっくり来なかったので、しっくり来るよう考えてみました。

演劇は、自律と他律、両方とも必要とします。セルフコントロールし、また他人にもそれを手伝ってもらいます。

演劇でいうセルフコントロールとは、では一体なんなのでしょう。

まず人間は
思ったり、考えたりします。本人が意図することは、発信するしないに関わらず、「作家」の役割です。

自分の中に作家がいる。ということです。

次に行動します。
行動することはパフォーマーの役割です。これは他人にみえる部分ですね。

行動する自分は、演劇作品に出演するしないに関わらず、パフォーマーです。

パフォーマーは他人にみえるため、
ここからは、演出家が登場します。

演出家というのは、「要求」する人を指します。

本人がやりたいこと、思ったこと、意図したこと(作家)と
本人がとった行動(パフォーマー)が一致しない場合、

演出家は、①作家の意図と、②パフォーマーの意図と③周りの環境を、きちんと読み取る、読解し、①~③のどれかに要求をします。

これを本人がやる場合は「自律」で、他人に手伝ってもらう場合は「他律」ですね。

なるほど、確かに大人になると「他律」に触れる機会が増えそうですね。

来週、これの具体例と、師弟関係における自律と他律について考えてみたいと思います。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2017年8月10日木曜日

小々枝 通信その②

小々枝 通信その②

文化と犬について。

殺されないために文化がある。
頭のいい人は考えました。すごい頭がよくても、すごい才能があっても、武力には敵わないのだ。

よし、良心や道徳というルールを作って、武力で殺されないようにしよう!

殺処分される犬は、しつけという文化がなされていなかったり、人間を怖いと思わせた場合に、それ以上手のつけようがないと判断されたからだ。

とある保健所2件はすぐ隣にあるのに、都道府県が違うために方針が違い、片方は殺処分0を目指す試みをし、もう片方は、特に何もしない。これで実際の殺処分数が大幅に違う。

大正区のアトリエの近くには、マスティングスティフという中国で大きければ大きいほど値段が高く、ステイタスになる犬がいるのだけど、そいつがよぼよぼの小さなおばあさんに連れられている。

正直言ってアトリエ小々枝の住人は怖いと思っている。小型犬とか一噛みで殺した事例や、のしかかって殺した事例だってある。

ペットというのは、人間とその動物との間に人間から文化(ルール)を提供し、それを守ってもらうという仕事の依頼をし、ご飯を支払うので、ここにいてください。ということだと住人は解釈する。
文化は人間を守るためにあるのであり、自分が周りから殺されないようにするためには、絶えず自分の文化を育む必要がある。

アトリエ小々枝のワークショップでは、自分で自分を絡めとっている思考や身体に気づき、自分が周りから殺されないようにするための文化を育むことを目的としている。

そのためのカリキュラムなども今後築きますが、学校教育と違うのは、与えられるものではなく、本人が自分で選択し、考える力を自分で養うことなのである。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

小々枝 通信その①

小々枝 通信その①

猫について。
大正区にある森林浴アトリエ小々枝。
商店街で可愛がられているノラ猫がやってくる。
天然の猫カフェなのである。

可愛がられているというのは推測で、
この商店街の和菓子屋さんのおじちゃんが亡くなってから
うちにやってくるフルーツパーク不知火は少し痩せた。

ちょうどうちはナワバリで、よく巡回してくる。
ナワバリにいる猫1匹の匂い(猫パス)を手につけて歩いていると、
そのナワバリの猫はちょっと仲良くしてくれる。
しかし、一歩でもその界隈のナワバリを出ると、その猫パスは通用しない。
すごい!業界みたいだね!

ご近所の噂好きのどんみたいなおばさんがいて、
向かいのおばさんは、とりあえず同調しておこう。
みたいな感じであるのだけど、
どんは猫が嫌いらしい。

でも猫が嫌われる理由ってなんだろう?
①おしっこやフンをされると困る。
②ご飯を欲しがり、言葉が通じない。
③引っかかれたら爪からばい菌が入る。
④ふえる。

こんなところだろうか。

さて、地域猫という特定の飼い主がおらず、
共同体で飼われている猫がいる。

上記の対策はこんな感じで行われている。
①みんなで掃除しよう!
②特定の場所でご飯をあげてしまおう!
③動物病院で爪を切ったり、洗ったりしちゃおう!
④避妊手術をして、した猫の耳はVの字にカットしちゃおう!

みたいな感じなのである。
もちろん穏やかに過ごしているように見える猫もいる。
しかし、身を守ったり、屋根から落ちないための爪を奪い、
さらには自分の意思でなく、性器を奪われるのはどうなのか。
そして、アンチ地域猫派とかが無差別殺猫を行ったりすることもあるそうだ。

そもそも、こういう問題が起こるのは、猫が大きいからだ。
大きいというのは、ネズミより大きいということだ。
犬より大きいと戦闘力が高すぎて周りの生態系と適応しない。

しかし、ネズミより大きいと、
人間の都合で駆除するという考えと、
人間の都合でペットとして飼うという選択肢が両立する。

ハムスターとネズミの違いは凶暴かどうかだと思う。

天然の猫カフェである小々枝。
住人はそんなことより、
猫と猫のコミュニティと、猫と人のコミュニティ、ネットワークに関心がある。

彼らがふらっと訪れるとき、そこには何らかの意思がある。

その姿を通して、言葉が通じない彼らとのコミュニケーションを図っていきたい。

そうすることが、言語やすでにあるシステムだけを信じないで
人間を研究する学問である演劇のトレーニングや実践になっていると思うのである。

森林浴アトリエ小々枝 住人より

2016年12月12日月曜日

自由に生きればお得!

※自由に生きるお手本料

0歳~未就学生 1名来場につき自由に生きるお手本として100円+駄菓子をお支払いします。

※学生割引
小学生~高校3年生 60分600円

高校生の年齢は問いませんが、割引を適応する場合は、身分証明書の提示をお願いします。


料金設定意図
保育園問題で、「日本死ね」となる。保育園建設に反対する人がいる。電車内でベビーカーを折りたため、「泣くな、うるさい」と怒る人がいる。

こどもを邪魔にせざるを得ないのか、しているのか分からないけれど、そんな世の中のつくりになってしまっている。率直に嫌い。と思う。

「指紋は象のはたけ」の上演テキストは、西成の釜ヶ崎と呼ばれるところで書かれました。テーマではないのですが、分からなくて興味があれば調べてみてください。

そこには、生活保護をもらってパチンコに使い、月の頭にはもうお金がない人や、お酒を呑んでいてお金がなくなる人、同じ思考のまま時間を止めていたり、人からお金を借りていたりする人もいるようなのでした。

自分一人なら生活が出来るんだよ
と、そんなことを思います。

自分がやりたいと思ったことをやり遂げられる人はどれくらいいてますか?私はそんな人にもっともっと出会いたいと思っています。

今回、「お金が生きる期限」になっているということについて考察します。作品の都合上1時間につき1200円をいただきます。